LOGIN第4話 八年ぶりの集合
午後十一時を回った山道の入口には、雨を遮るものがなかった。
街道から一本外れた先で舗装は途切れ、黒い土が靴底へ重くまとわりつく。街灯はなく、杉林の奥で濡れた枝が擦れ合っていた。
澪は傘の柄を両手で握ったまま、道の先を見上げていた。
闇の向こうに、七刻女学校の門がある。
まだ姿は見えない。それでも雨の匂いに、古い木材と錆の臭いが混じっている気がした。
八年前の夜も雨だった。澄花は傘を差さず、濡れた手首へ赤い組紐を巻いて笑っていた。
帰る道を忘れないため。
その言葉が蘇るたび、澪のコートのポケットが重くなる。
透明な証拠袋へ入れた組紐は、コートの内側にある。脅しへ従う必要はないと言った朔も、仕掛けた者の目的を探るため、今夜だけ持参すべきだと判断した。
背後で車のドアが閉まった。
澪が振り返ると、黒い車の脇から朔が歩いてきた。黒いシャツに薄手のジャケット。肩には昨朝と同じ小型カメラを下げ、片手に防水の機材鞄を持っている。
傘は差さず、短い髪から雨粒を落としていた。
「早いな」
「眠れなかったから」
「俺もだ」
そう言う顔には疲労がほとんど出ていない。
朔は澪の足元から道の左右へ視線を走らせた。
「組紐は」
「持ってる」
「出すな。門までそのままにしろ」
「分かった」
朔は澪の傘を少し持ち上げ、彼女の肩が濡れない位置へ傾けた。自分の右肩はすぐに雨を吸い、濃い色へ変わっていく。
澪が傘を戻そうとすると、朔は柄を押し返した。
「足元を見ろ。滑る」
遠くから、車のエンジン音が近づいてきた。
白い乗用車が街道の端へ停まり、運転席から早乙女美月が降りる。紺色の防水上着に細身のパンツ。髪は後ろで一つに束ね、肩へ大きな医療用の鞄を掛けていた。
澪と目が合う。
美月の足が一瞬だけ止まった。
「久しぶり」
澪が言うと、美月は口元を固くした。
「そうね」
八年ぶりの挨拶は、それだけだった。
美月は朔へ短く頷き、救急用品を詰めた鞄の留め具を確認した。
「病院から持ち出したの?」
「私物。山へ入るなら最低限は必要でしょう」
「廃校の中まで行くと決めたわけじゃない」
朔が言う。
「でも、行かないつもりでもないんでしょう」
美月の目は朔ではなく、澪のポケットへ向いていた。
組紐のことを、オンライン通話で伝えてある。
また車のライトが木々を白く撫でた。
黒瀬悠斗は大型の四輪駆動車で現れた。運転席から降りるなり、後部座席を開け、強力な懐中電灯と工具箱を取り出す。濃い灰色の雨具は高価そうで、泥を弾いていた。
「まさか本当に全員来るとはな」
澪、朔、美月へ順に目を移し、山道を見上げて眉を寄せた。
「こんな場所で集まる必要はなかっただろ。警察署でも会社の会議室でも、話ならできた」
「メールを無視して、一人で自宅にいる方が安全だと思った?」
美月が返す。
「少なくとも山奥の廃校へ入るよりはましだ」
「八年前も同じことを言ったわね」
悠斗の工具箱が、泥の上で重い音を立てた。
「何の話だ」
「危なくない。すぐ戻れる。撮影だけだって。あなたがみんなを煽った」
「俺だけが決めたわけじゃない」
悠斗の声が低くなる。
「部長だったのは俺だが、全員、自分で来た。澄花だって――」
「その名前を軽く口にしないで」
美月の声が雨音を切った。
鞄の持ち手を握る指が白くなっている。
「また誰かがいなくなってから、冗談だったって言うつもり?」
「俺だけのせいじゃないだろ」
「少なくとも、先頭に立って門を越えたのはあなたよ」
「止めなかったのはお前も同じだ」
悠斗が一歩近づく。
美月は退かなかった。
二人の間へ朔が入った。
「喧嘩をするなら帰れ」
大きな声ではない。
それでも二人は言葉を止めた。
「ただし、帰るなら一人にはなるな。車に乗る前も、帰宅したあとも、誰かと連絡をつなげ。昨夜、澪の部屋の前まで何者かが来た」
「本当に人間だったのか」
悠斗が問う。
「人間でないと決めつける材料もない」
「お前は昔からそうだな。信じてないくせに、否定もしない」
「決めつけて死ぬよりましだ」
朔の声には温度がなかった。
悠斗は口を閉じた。
次に来たのは白石奈々香だった。
小さな赤い車を道の端へ寄せ、明るい色のレインコート姿で降りてくる。暗闇の中では、そこだけが撮影用の照明を当てられたように浮いて見えた。
「うわ、本当に山じゃん。電波、一本しかないんだけど」
軽い声とは裏腹に、扉を閉めると何度も背後を振り返った。
鞄から小型カメラが覗き、澪の視線に気づくと布で隠した。
「撮るの?」
「念のため。何かあったとき、記録がない方が困るでしょ」
「配信はするな」
朔が言った。
「しないよ。圏外に近いし」
「通信できてもするな。メールには部外者へ見せるなと書いてあった」
「そんな脅しに従うの?」
奈々香は笑おうとした。
「それとも、本気で呪いを信じてる?」
朔は答えなかった。
奈々香の笑みが薄くなる。
最後の車が到着したのは、午後十一時二十二分だった。
相馬透は古い青色の車から降りた。黒いパーカーの上に透明な雨具を着て、首へ大型のヘッドフォンと携帯録音機を下げている。八年前より頬が痩せ、濡れた前髪の奥で目だけが暗く光っていた。
「遅い」
悠斗が言う。
「道を間違えた」
「一本道だろ」
「ナビに別の道が出た」
透はそれ以上説明しなかった。
山へ小さなマイクを向ける。
「何か聞こえる?」
澪が訊いた。
「雨」
「それだけ?」
透は返事をせず、ヘッドフォンの片側を耳へ押し当てた。
六人が揃った。
澪は、一人ずつ顔を見た。
神代朔。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
相馬透。
そして、自分。
六人。
澄花を除いた、あの夜の生存者。
それぞれの顔へ別の年月が刻まれていても、暗い山道に並ぶ姿はあの夜と変わらなかった。
悠斗が前に立ち、美月がその横で睨む。
奈々香は誰かの肩へ触れられる距離を選び、透は少し離れて音を拾う。
朔は澪の半歩前にいる。
そして中央だけが、空いている。
澪は無意識に、その空白から目を逸らした。
「行くぞ」
朔が懐中電灯をつけた。
白い光が、泥の道を細く切り開く。
山道は想像していた以上に荒れていた。雑草が膝の高さまで伸び、雨水が道の中央を細い川のように流れている。踏むたび、靴の周囲で泥が吸いつく音を立てた。
誰も会話をしない。
六人分の足音と雨音だけが続き、透の録音機で赤い表示灯が瞬いていた。
道が曲がるたび背後を振り返ったが、見えるのは細い雨の線だけだった。
十分ほど登ったところで、木々の間に門が現れた。
錆びた鉄の門扉と蔦に覆われた石柱。校名板には、消えかけた文字で七刻女学校と残っている。
八年前と同じだった。
違うのは、門が開いていることだけだ。
本来なら太い鎖と南京錠で閉ざされている。八年前に悠斗が切ったあと、新しい鎖へ交換されたはずだった。
その鎖が、今は地面へ落ちていた。
門扉は、人一人が通れるほど開いている。
「誰か先に入ったのか」
悠斗が懐中電灯を門の内側へ向ける。
濡れた石畳。
伸び放題の草。
校舎まで続く道には、足跡がない。
「まだ入るな」
朔が片手を上げた。
門の前に、六つの木箱が並んでいた。
黒ずんだ弁当箱ほどの木箱で、蓋には白い紙が貼られている。
雨宮澪。
神代朔。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
相馬透。
六人の名前が、一つずつ墨で書かれている。
雨に濡れても、墨は滲んでいなかった。
「触るな」
朔はカメラを構え、箱の位置を撮影した。
悠斗がしゃがみ込み、懐中電灯で側面を照らす。
「新しい釘だ。箱自体は古いが、蓋は最近打ち直されてる」
「開けるの?」
奈々香の声が細い。
「ここまで来て、開けないつもりか」
悠斗は自分の名が書かれた箱へ手を伸ばした。
朔が止めるより早く、蓋を持ち上げる。
中には、真鍮製の札が入っていた。
三年二組。
黒ずんだ表面へ、教室番号が刻まれている。
悠斗の顔から色が消えた。
「これ……」
「知ってるの?」
澪が訊く。
悠斗は札を見つめたまま、すぐには答えなかった。
「八年前、教室の扉から外した」
「持って帰ったの?」
美月の声が硬くなる。
「その場で捨てた。門を出る前に」
「聞いてない」
「言う必要がなかった」
美月は自分の箱を開けた。
中には曇った小瓶があり、底へ白い粉が残っていた。茶色いラベルには薬品名が半分だけ見える。
美月は蓋へ触れず、息を呑んだ。
「理科室の棚にあったもの」
「お前も持ち出したのか」
悠斗が言う。
「好奇心で一度ポケットに入れた。でも、中庭で割れたはずよ」
「これは割れてない」
「だから分からないの」
奈々香は自分の箱の前で立ち尽くしていた。
蓋を開くと、割れた赤い髪留めが現れた。透明な樹脂の中へ、小さな白い花が封じられている。留め金は折れ、端に数本の黒い髪が絡んでいた。
奈々香の唇が震える。
「それは?」
澪が尋ねる。
「私のじゃない」
すぐに否定した。
だが、奈々香の左手が髪へ上がり、耳の上を隠した。
「澄花の?」
「知らない」
箱の蓋を閉める音が強く響いた。
透の箱には、灰色のカセットテープが入っていた。
ラベルには、滲んだ青い文字で七刻・一回目と書かれている。
透はその場へ膝をついた。
「お前が録ったものか」
朔が訊く。
「字は俺のだ」
「消したんじゃなかったの」
奈々香が言う。
「これは処分した」
「でも、ある」
透はヘッドフォンを外した。耳の周囲が赤くなっている。
「このテープは、最初の探索の前に使った。中には何も録れていないはずだ」
「最初の探索?」
澪が聞き返す。
透は目を上げなかった。
問いただす前に、朔が自分の箱を開けた。
古いビデオカメラの予備バッテリーが入っている。
角へ白い擦り傷があり、側面には朔の名前の頭文字が油性ペンで書かれていた。
「まだ持ってたの?」
澪が訊く。
「本体も予備も警察へ渡した」
「返されたんじゃないのか」
悠斗が問う。
「本体だけだ。これは証拠保管中に紛失したと聞いた」
朔が手袋越しに持ち上げる。端子には新しい傷があった。
「最近まで使われてる」
その言葉に、誰も声を出さなかった。
最後に残ったのは、澪の箱だった。
蓋はすでに少し開いている。
朔が先に光を当てた。
中は空だった。
「何もない」
澪は息を吐いた。
箱の底には、昨夜と同じ七つの水滴が等間隔で円を描いていた。
そのとき、コートのポケットが動いた。
内側で、小さな生き物が身をよじったような感触。
澪は声を上げ、ポケットを押さえた。
「どうした」
朔が肩へ手を添える。
「組紐が……」
透明な袋を取り出そうとした瞬間、袋の口が勝手に開いた。
赤い組紐が滑り出る。
澪の指には触れていない。
濡れた絹糸は細い蛇のようにほどけ、木箱へ落ちた。
輪を作り、七つの水滴の中央へ収まる。
奈々香が小さく悲鳴を漏らした。
美月は一歩退き、鞄を胸元へ引き寄せる。
懐中電灯を受け、留め具の七本の線が鈍く光った。
「誰かが糸をつけて引いたんだ」
悠斗が言った。
だが、組紐にも袋にも糸はない。
透の録音機から、かすかな雑音が流れた。
ざり。
ざり。
濡れた床を何かが這う音。
朔は澪の前へ立ち、門の内側へカメラを向けた。
腕時計の表示が、午後十一時五十九分へ変わる。
六人のスマートフォンも、同じ時刻を示していた。
秒が進む。
五十七。
五十八。
五十九。
午前零時。
背後で鉄が激しく鳴った。
六人が振り返る。
開いていた門扉が、風もないのに閉じていた。
地面へ落ちていた鎖が跳ね上がる。生き物の尾のように鉄柵へ巻きつき、何重にも絡み合う。最後に南京錠が持ち上がり、鋭い音を立てて閉まった。
悠斗が駆け寄り、鎖を掴む。
「離せ!」
朔の声と同時に、六人のスマートフォンが鳴った。
学校の始業ベル。
古い鉄琴の音が雨の山へ広がる。
かあん。
少し外れた二音目。
透が顔を上げた。
「同じだ」
昨夜、音声の奥に混じっていた音だった。
画面には、新しい文章が表示されている。
一限目を始めます。
忘れ物を返しに来てください。
廃校の三階で、一つだけ窓が白く灯った。
教室の窓辺に、制服姿の少女が立っていた。
濡れた長い髪。
細い肩。
右手首へ巻かれた、赤いもの。
澪の喉から名がこぼれかけた。
その瞬間、少女の身体が後ろへ揺れた。
暗い教室の奥から伸びた何かが、腰へ巻きついたように見えた。
少女は抵抗する間もなく、床を滑るように引きずられていく。
白い手だけが窓枠を掴んだ。
指が一本ずつ外れる。
最後に、小指の爪が硝子を引っ掻いた。
高い音が雨の中まで届いた。
澪が名前を呼ぶより早く、教室の明かりが消えた。
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか